安全保障
Security
第2章「戦争の放棄」を構成する唯一の条文として「戦力の不保持」と「交戦権の否定」を規定する第9条は、戦後日本のあらゆる安全保障政策の法的基盤として常に論争の種になってきた。最大の論点は、自衛隊保持、個別/集団的自衛権行使の合憲性である。自衛隊は災害救助などを通じて次第に国民の支持を獲得してきたが、海外派遣など活動範囲の合憲性において国論が分かれてきた。
日本政府は憲法9条は「主権国家としての固有の自衛権」を否定するものではなく、自衛のための「必要最小限度の実力」の保持は合憲であるという立場をとり、国防の基本的な方針を専守防衛と設定してきた。専守防衛とは先制攻撃や領土外における武力活動を否定し、攻撃を受けて初めて自己防衛目的のみに武力を使用する考えである。1957年に砂川(現・立川)の米軍基地拡張に反対するデモ隊が基地内に侵入した事件で、東京地裁が米軍駐留に違憲判決を出すも、検察の跳躍上告の末に最高裁が同判決を廃棄、日米安全保障条約は違憲とはいえないと結論づけた。日米同盟の是非をめぐる論争は1960年の安保闘争をピークに縮小し、高度経済成長期を通じて9条の制約下で日米安保条約を運営する軽武装・重商主義路線が定着。しかし経済大国化の一方で、湾岸戦争(1990-1991年)では経済的支援に終始し、国際社会から「一国平和主義」との批判を受けた。この経験から、1990年代以降には自衛隊の海外派兵を視野に入れた国際貢献が議論されるようになり、1992年にはPKO法案が成立、カンボジアへの自衛隊派遣が実現した。背景には従来の安全保障の対象を国家から個人に広げた「人間の安全保障」への対応として人道支援を中心とした国際協力の模索もあった。日米同盟を基軸とした安全保障体制は関連法案の整備により後方支援を軸に非戦闘地域での活動を広げることで強化を図り、2000年代に入ると北朝鮮のミサイル問題やアメリカ同時多発テロ事件以降の国際テロの脅威などを背景に有事法制を進めた。2007年には防衛省が防衛庁に格上げされた。2014年、当時の安倍晋三内閣により、武器輸出三原則に代わり防衛装備移転三原則をが閣議決定され、限定的な武器輸出、国際共同開発参画が可能になった。これを受けて2015年には防衛装備庁が発足。前後して安倍政権は、やはり限定的ながら集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更を閣議決定、翌2015年にはそれに伴う自衛隊法を含む関連法10本を改正し、あわせて国際平和支援法を制定した。この平和安全法制は最終的に政府が議会で強行採決に踏み切ったため、野党のみならず市民からも大規模な抗議を受け、国会前では大規模なデモが行われた。
そもそも「戦争の放棄」をめぐって日本政府とGHQとの間にどのようなやりとりがあったのかについては未だ不明な点も多い。しかし、先行研究によると「戦争の放棄」は、天皇制の維持と対をなすものだった。日本が受諾した戦争終結の条件を挙げたポツダム宣言には、日本の民主化と武装解除が含まれていた。日本政府の中枢は国体護持(天皇制維持)と引き換えに非武装化を受入れたが、GHQにとって非武装化の徹底は天皇制維持への極東委員会に参加する連合国諸国、あるいはアメリカの国内世論からの批判を相殺する意味があったとされる。なお、後に自衛のための武力保持と自衛権行使の根拠の一つとなったのが、制定過程で衆議院にに設置された芦田均を委員長とする憲法改正案委員小委員会において二項の冒頭に加えられた「前項の目的を達するため」という文言を挿入する修正(通称芦田修正)であった。この修正によって第一項で放棄した戦争と武力の行使の例外として自衛のための武力保持と自衛権行使は合憲であるという余地が生まれたという解釈である。その後、貴族院における憲法改正案特別委員小委員会において、GHQを通じて日本側に極東委員会の意向が伝えられ、芦田修正を受け入れる代わりとして文民統制条項(第66条2項)が設けられた。なお憲法9条の「戦争の放棄」は、日本の武装解除だけでなく、1928年に締結されたパリ不戦条約の系譜を引く戦争の違法化としての普遍的性格も持ち合わせていた。
日本国憲法は1947年に施行された当時は政府も積極的に普及に努め、広く国民に受け入れた。しかし1950年には朝鮮戦争が勃発、アメリカは日本に再軍備を要請、自衛隊の前身である警察予備隊も組織され、なし崩し的に再軍備が進んだ。アメリカの占領政策が非武装・民主化から、西側陣営の一員としての経済復興、そして再軍備要請へ転換したことに表れるように、日本をめぐる国際情勢は、日本国憲法が制定時から大きく変わってしまった。冷戦のアジア拡大が不可避となり、第二次世界大戦終結後の厭戦感と世界平和の気運は失われていた。自衛隊は設立以来活動範囲を広げてきたが、その都度合憲性が問われてきた。改正により自衛隊の存在およびその活動の合憲性を明文化しようとする要求も強まるが、戦後日本の平和主義の象徴となった9条の改正には抵抗も根強かった。1955年に自民党と社会党による保革二大政党が誕生、以降、9条を軸に憲法改正を掲げる自民党が改憲要件である国会の三分の二を占めるのを社会党が護憲を掲げ阻み、長らく憲法改正は論議そのものが棚げされた。1990年代には入り米ソ対立による冷戦の崩壊と時期をほぼ同じくして国内冷戦を構造化してきた55年体制が崩れ、新党ブーム、自民党下野と政界再編が起こり、自衛隊の国際貢献などの観点からの多様な改正論が提起された。その後まもなく再び自民党が政権を握るも、2009年の衆議院総選挙で圧勝した中道左派政党民主党により政権交代が起こり、再び下野した自民党が2012年に憲法改正草案を発表、自衛隊明記などを盛り込んだ。同年末に自民党が政権奪還を果たし、首相に就任した安倍晋三内閣は2020年の退任まで通算3,188日の歴代最長内閣を記録し、在任中に先の平和安全法制に取り組むも、掲げてきた憲法改正は実現しなかった。